北相木村の遺跡で発見された考古遺物を、3Dデータとして公開する取り組みを、再開しました。
少しづつですが、コンテンツを増やしていきたいと思います。
今回は、村内の宮ノ平遺跡で発見されたとされる、縄文時代中期(約5,000年前)の”焼町土器”となります。
ぜひご覧になって下さい。
学芸員 ふじもり
北相木村考古博物館の学芸員です。ここから村の文化財や考古学の情報を発信していきます。
北相木村の遺跡で発見された考古遺物を、3Dデータとして公開する取り組みを、再開しました。
少しづつですが、コンテンツを増やしていきたいと思います。
今回は、村内の宮ノ平遺跡で発見されたとされる、縄文時代中期(約5,000年前)の”焼町土器”となります。
ぜひご覧になって下さい。
新型コロナウイルス感染の急拡大で、残念ながらお披露目のイベントは中止となりましたが、北相木村考古博物館「出土遺物3Ⅾ化計画」、いろいろと進んできました。
昨年末に開設した「北相木村考古博物館3Ⅾ」では、現在8つのデータ(遺跡、遺物)を公開しています。ぜひご覧ください。
また、そこでもご覧いただける、村内坂上遺跡出土の縄文時代中期顔面突起付土器(破片)について、ふるさと納税にご協力いただいた皆様へのお礼として、3Ⅾプリンターによるレプリカ(ミニチュア)を贈呈しました。
(ちなみに、昨年行ったアンケートでは、縄文中期の土器片が最も人気でした。それゆえのセレクトになります)
現在、このようなレプリカを多くの方に手に取っていただける方法を模索しています。ご意見、リクエストもお待ちしております。
デスクトップに縄文時代の欠片を
ディスプレイの例その1
ディスプレイの例その2
本事業は「長野県地域発元気づくり支援金活用事業」として実施してます。
いよいよ本格的に、北相木村の考古遺物を3Ⅾデータ化しています。本当は動画などでお見せしたいのですが、まずは画像で。なお、土器は陰影がはっきり出るよう、あえてカラーを省いています。
坂上遺跡出土縄文中期土器その1
模様の凹凸がよく見えます。
坂上遺跡出土縄文中期土器その2
こちらも立体感がわかるかと思います。
栃原岩陰遺跡出土縄文早期土器(裏面)
これは少しマニアックですが、土器の裏面や、はがれた部分にも縄目の模様(縄文)が見えるかと思います。
栃原岩陰遺跡出土骨角器
側面の細い加工も表現されました。
画面上では、これを360度自由に回転して見ることができますが、さらにどんな風に活用できるか、ご期待ください。
尚、本事業は「長野県地域発元気づくり支援金活用事業」として実施してます。
栃原岩陰遺跡では、小型の石器がおよそ4700点出土していますが、これまでは、石鏃と代表的なスクレイパー類の一部を展示しているのみでした。
しかし、ここまでの研究では、厚さ約560cmの遺物包含層の中で、深さによって内容が変化することが分かってきています。
例えば、-400cm以下では、小型三角形の石鏃や拇指状掻器(皮なめしに使う石器)が多いこと、小型で板状の原石が含まれることがあげられ、逆に-300cmより上の層では、やや大型の石鏃や、残核(石器製作に使われなかった部分)、さらに黒曜石以外の石器も目立つようになるなど、いくつかの違いが認められます。
今回は、これらが視覚的に分かるような展示を目指してみました。解説と合わせると、時期による変化を理解してい頂けると思います。 きっとそこには、道具の変化だけでなく、黒曜石をはじめとした石材の入手方法など、縄文人のライフスタイルの変化が隠されているのでしょう。
当館では現在、栃原岩陰遺跡の資料(主に縄文時代早期)の確認作業と並行し、村内各地から採集された土器(主に縄文時代中期)の整理と資料化に取り組んでいます。
特に後者は、これまでどこにも発表されていないものが多く、考古資料として世に出す準備を進めています。
どんな方法で、どんなかたちでの発表が適切か、試行錯誤しながらですが、楽しい作業でもあります。
写真は村内各地で発見された縄文時代中期(およそ5000年前)の土器。大きさや形が分かるものもあり、
その姿が浮かび上がってきます。
間が空いてしまってすみません。前回の続きです。
前回までに、栃原岩陰遺跡下部、地表下-440㎝出土の約11000~10700年前の土器に、豆(ダイズ属)の種子の跡があったことを書きました。今回は、同じ下部出土のその他の豆圧痕の例、さらに同じ下部出土の炭化したアズキの種子が、やはり年代測定で古い値を示したこと、そしてその意味するところを書きたいと思います。
まず写真の土器片が、豆の圧痕が残されていたものです。右側から-440㎝、-440~−450㎝、-400㎝付近(ただし同一個体の土器片が-450㎝付近から複数有り)出土で、それぞれ豆、ここではアズキ亜属の種子圧痕が確認されています。
そして-465~−495㎝で出土した炭化した小さな種子が、昨年の報告書刊行作業の中で、同じくアズキ亜属と同定されました。さらに、その後の放射性年代測定によって、これがおよそ10800~10600年前(10758-10586 cal BC 95.4%)の種子とされたのです。
つまり栃原岩陰遺跡を利用した縄文早期はじめ(1万数百年前)の人々も、小さな豆を食事のメニューに加えていたと考えて良いのではないでしょうか。
ただし、これらはいずれも小型のもので、現代の私たちが慣れ親しんでいる大豆や小豆よりもずっと小さいものです。実はこれらの豆類、縄文時代中期(およそ5000年前)にはかなり大型化したものが存在しており、この頃の人々が、簡易的な栽培を行っていた可能性も指摘されています。当然、大きくした豆を、食料として用いていたのでしょう。
栃原岩陰遺跡で検出された小型の豆類は、おそらく栽培される以前の、野生のツルマメ、ヤブツルアズキ(それぞれ大豆や小豆の原種、野生種)と考えられます。 肉や魚、堅果類(ドングリなど)の利用はこれまでも想定されていますが、栃原岩陰遺跡の縄文早期はじめの人々も、豆の味を知っていたのだと思います。これは現在のところ、国内でもかなり古い事例であり、学術的にも貴重なものです。
小さな土器片に残された、小さな小さな穴、ですが、実は重要なことが分かるという例でした。
このように、研究の進展により、同じ資料からも新たな発見が生まれます。だからこそ、博物館は膨大な資料を、いつまでも保存管理していく必要があるのです。
大分時間が経ってしまいましたが、前回の続きです。前回は、土器に付着していた炭化物で年代が割り出せ、尚且つ豆の痕が残っていた土器を紹介しました。ではなぜ、それが豆だと分かったのでしょう。
土器の表面や断面には、時折数㎜大の穴が空いています。これを圧痕と呼びます。以前は漠然と、小さな石か何かが抜け落ちたものと思われていましたが、ここにシリコンゴムを流し込み、取り出したレプリカを顕微鏡などで観察すると、それが小さな虫や植物の種である場合があると分かってきました。これは「圧痕レプリカ法」とも呼ばれ、縄文時代の研究において、新しい数々の発見を生んでいます。
中でも注目されたのが、アズキやダイズの仲間の存在でした。土器の圧痕には、相当数の豆が含まれていたのです。これにより、縄文時代におそらくは食料として豆が利用されていたこと、さらに一部の地域では、発見される豆(種子)の大型化が起こっており、これは野生種から栽培種への転換を示す可能性も指摘されています。つまり、縄文時代はただ狩りをし、木の実を集め、魚や貝を捕っていたのみでなく、植物の栽培もしていたのではないかという、縄文時代のイメージを大きく変える意見も出されています。
さて、もう一度、前回紹介した栃原岩陰遺跡の「ついてる土器」を見てみると、撚糸文が内面にも外面にも施文され、地表下-440㎝付近で出土、更に年代測定ではおよそ11000年前と、縄文時代早期初め頃のものとして間違いがなさそうです。圧痕として残されていた豆は長径4.5㎜と、今食卓で見るものと比べるとはるかに小型ですが、顕微鏡によるレプリカの観察からも、ダイズの仲間(ダイズ属)と同定されました。
前回紹介した土器に残された、圧痕のレプリカ。上の楕円形の部分が、ダイズ属種子と同定されている(写真は中山誠二氏によるレプリカ)。
つまり、11000年前に栃原に住んだ人が、豆を食べていたかもしれないのです。さらに栃原岩陰遺跡からは、この他にも豆の発見がありました。これらは何を意味しているのでしょうか?果たして本当に、豆を食べていたのでしょうか?
また長くなってしまったので、今回はここまで。次回こそ、栃原岩陰遺跡の「ついてる土器」オールスターズで、上の疑問に迫りたいと思います。
ここまで、骨角器、石器を紹介してきましたが、次はやはり土器でしょうか? しかし、栃原岩陰遺跡出土の土器は、量も膨大で、時期にも幅があります。そこで今回は、土器そのものと言うよりも、研究の過程を振り返りつつ、どんなことが分かってきたのか、そんな例を紹介します。
写真の土器片は、「栃原岩陰部」のⅡ-1区、ー440㎝から出土したもの。上下の幅7.5㎝とそれほど大きな破片ではありませんが、実はこれが、幸運に恵まれた「ついてる土器」だったのです。
考古学では、土器の模様や胎土(材料となった素地土)、作り方の技法が重要視されます。それが「土器型式」というまとまりになり、年代や地域を示す指標になるからです。その見方では、この土器は表と裏(考古学用語では外面と内面)に撚糸文(細い棒にごく細い縄を巻き付け、それを転がして付けた模様)が施文された「表裏撚糸文土器」の口縁(土器の口の部分)を含んだ破片で、ここから縄文時代早期の土器と判断出来ます。
しかし、この様な特徴だけでは細かい時期が不明確で、2010年に(株)加速器研究所に依頼し、放射性炭素年代測定を行いました。この土器の内面には、当時のお焦げ(炭化物)が付着していたことで、この分析が可能となったのです。放射性炭素年代測定についてはまた別の機会にしますが、最近では精度も上がり、細かな実年代(今からおよそ何年前のものか)が、ある程度分かるようになってきています。
これによると、この土器片は今からおよそ11,000年前(11105 −10745 cal BP 95.4%)のものである可能性が高いとされました。これは縄文時代早期のはじめ頃と言えそうで、その時間的位置付けもはっきりしてきました。この様に、たまたま残っていたお焦げによって年代が割り出せるのは、全体の数パーセントにも満たない、幸運な土器なのです。
そしてさらに、この土器については興味深い発見が続きます。実は2010年の分析の際にも、外面に楕円形の穴(写真左上の黒い部分)があることが指摘されていたのですが、その後2016年からの明治大学黒輝石研究センターなどによる調査で、それがダイズ属の種子、つまり豆の痕だと判明したのです。
なぜそのような事が分かったのか、そしてそれはどのような意味を持つのか。同じく栃原岩陰遺跡の「ついてる土器」の例と共に、次回で説明したいと思います。
世界的なコロナ禍のなかで、各地の博物館や図書館に立ち入れない状況が続いています。その意味でも、考古学を学ぶ、研究する上では必要不可欠な遺跡の発掘調査報告書について、インターネット上での利用を図るのも、これまで以上に急務となっております。
北相木村教育委員会では、これまでに5冊の発掘調査報告書を発行しておりますが、このうち4冊については、すでに奈良文化財研究所の運営する全国遺跡報告総覧に掲載済みです。
以下、専門用語が多くて読みづらいかもしれませんが、それぞれの概要を示しました。いずれもわずかなページ数の報告書ですが、ご利用頂ければ幸いです。
『栃原岩陰遺跡発掘調査報告書 -昭和58年度-』
1984年発行。国史跡栃原岩陰遺跡は複数の岩陰からなりますが、1983年には、これまで発掘を行っていた「栃原岩陰部」よりも東側の調査をしています。
わずかな面積のトレンチ調査ですが、時代的には縄文早期、前期、中期、中世の遺物が出土しています。なかでも縄文早期後半の沈線文条痕文系土器が目立ちます。その他骨角器、獣骨、植物遺体も報告されています。
『坂上遺跡』
2000年発行。北相木村村内では、おそらく一二を競う面積の遺跡と思われますが、調査は村医師住宅建設に伴う小規模なもので、調査面積は約60㎡。しかし縄文早期、前期、中期、後期、平安時代の遺構遺物が確認されました。
特に遺物が多いのが縄文中期で、中でも前半期の土器が多くみられ、勝坂・井戸尻系土器に加え、関東の阿玉台式土器や、南佐久独自の形態も見出せます。また縄文後期では、堀之内式の文様の付いた土器の内側に、文様の無い土器が入れ子状に埋められていた、いわゆる埋甕が確認できました。
その他、中期後葉の連弧文土器や、後期前葉の南三十稲葉式土器の破片など、他地域の土器も見られます。
平安時代では、墨で何かが書かれた墨書土器が出土しています。
『国史跡 栃原岩陰遺跡・天狗岩岩陰 -保存整備事業に伴う発掘調査報告書-』
2002年発行。1983年の調査よりも東側、広い開口部をもつ「天狗岩岩陰部」について、部分的に試掘調査した際の報告書です。それぞれわずかづつですが、縄文前期、中期、弥生前期、中期、古代、中世、江戸期の遺物が出土。「天狗岩岩陰部」でも、良好な遺物包含層の存在が確認されています。
『木次原遺跡』
2003年発行。村の東部、標高約1200mに位置する遺跡で、1987年に作業小屋を建てた際、遺構の断面が露出していました。そこを新たに調査したところ、奈良平安時代の竪穴住居址であると確認できました。
さらに周辺を調査し、縄文時代前期前葉の竪穴住居址を検出しています。ここでは、大小850点以上のチャートが出土し、おそらく周辺で得たこの石を用いて、矢尻などの石器を作っていたと予想されています。黒曜石の入手や利用とは異なる生活の痕跡かもしれません。
尚、昨年発行した『栃原岩陰遺跡発掘調査報告書 第1次~第15次調査(1965~1978)』についても、現在、インターネット上で閲覧を可能とする準備を進めています。また、私の関わった近隣市町村のものについても、関係機関のご理解ご協力を得ながら、進めて行ければと思っております。
研究者、学生の皆さん、そして考古学に興味のある多くの方々に、広く利用されるかたちを目指して。
前回は骨角器の例を紹介しました。栃原岩陰遺跡では、骨角器を含めた様々な有機質の遺物が出土していますが、実はこのような例は、海浜部の貝塚などでは多いものの、内陸部の遺跡では珍しいものです。土が酸性である通常の遺跡では、骨などは分解されてしまい、現代までは残らないのがほとんど。その結果、縄文時代といえば、土器や石器のみが残された遺跡が多いのです。そういった意味でも、栃原岩陰遺跡は貴重な遺跡と言えます。
ではありますが、2回目の今日は、考古学の王道の一つとも言える石器を取り上げてみました。
一口に石器と言っても様々な道具を含みますが、今回取り上げたのは、研究者が「拇指状掻器(サム・スクレイパー)」と呼ぶ小さな石器です。その名の通り、人の親指の先端のような形をしています。厚みがある石材を用いて、急角度の加工で平面的には丸みをおびています。大きさにはばらつきもありますが、多くが2㎝程度。栃原岩陰遺跡では約70点以上出土し、そのほとんどが黒曜石製です。
個人的には、初めて本格的に取り組んだ栃原岩陰遺跡の遺物であり、数年後には諏訪湖底の曽根遺跡でも同様の石器を分析する機会があったりと、思い出深い石器でもあります。
さてこれらの石器、金属顕微鏡を使った観察によれば、丸く加工した部分を刃にして、皮なめしなどに使っていたようです。また面白いのは、この石器が出土するのは、栃原岩陰遺跡でも古い時期であるが縄文時代早期前葉の表裏縄文土器期(およそ11,000から10,700年前)の層に集中していることです。栃原岩陰遺跡の場合は、遺物に出土した深さが記録されているものが多いのですが、この石器については、ほとんどが深さ400~560㎝の層からしています。そして、同じ縄文時代でも、その後はほとんんど姿を見せません。
もし皮なめしの用途が正しければ、この時期は特に皮革製品を多く使う生活だったのか、あるいはその後、皮なめしに使う道具が変わったのか。もし前者なら、動物骨の出土量や種類、他の加工具との関係、さらには気候変動との関わり(寒い時期には皮革製品を多く使う傾向があるとも言われる)など、様々な検討課題が見えてきます。
小さな石器ですが、多くの事を考えさせてくれる石器でもあります。
2020年4月10日
北相木村考古博物館学芸員 藤森英二
新型コロナウイルス感染拡大防止のため、当館も、当面の間休館となっております。思えば昨年10月の台風19号の災害によりイベントが中止となって以来、ようやくお客様も戻ってきた矢先でした。
さて、当館の展示収蔵品のほとんどを占める栃原岩陰遺跡については、昨年冬に『栃原岩陰遺跡発掘調査報告書 第1次~第15次調査(1965~1978)』を刊行しましたが、その中からは、新しい栃原岩陰遺跡像が少しづつ見えてきています。出来ることなら、館にお越し頂くことで、それらをお伝えしていきたかったのですが、物事なかなか思うようにはいきませんね。
そこで、先進的な博物館のようなバーチャルな体験には敵わないものの、このブログを用いて、主に栃原岩陰遺跡についてのアップデートされた情報を、少しずつ提供していければと思います。
第1回目の今日は、栃原岩陰遺跡出土の謎の骨角器2点を取り上げてみましょう。
栃原岩陰遺跡では、研磨などの明かな加工のある動物骨(これらを骨角器と呼びます)が100点近く出土していますが、この中には用途不明のものがかなり含まれています。今回取り上げたのは、その中の2点で、写真左のものは「栃原岩陰部」Ⅰ~Ⅳ区、地表面からー460㎝のレベルで出土、左側は同区出土でレベルは不明です。区画やレベルの意味は、次回以降追々説明していきますが、少なくとも右側のものは、縄文時代早期はじめ、約11000~10700年前の物と思われます(なぜそんな年代が分かるのかは、いずれ、また)。
左側のもの(185-13)で長さ約8.6㎝、厚さ0.36㎝、幅0.56㎝、おそらく哺乳類(ニホンジカやイノシシの四肢骨と思われる)の骨片を磨き、片方の先端はやや鋭利に、もう片方はやや丸く仕上げ、円形の孔を開けています。さらに注目すべき点は、平坦な面と側面にギザギザあるいは斜めの直線模様を彫っていることでしょう。
しかし上に書いたように、これらが何に使われていた物なのかも、もちろんギザギザ模様の意味も解明されていません。同じような形状で模様が無い骨角器もありますが(それらもいつかは紹介出来ればと思います)、それらとの関係も分かりません。
「なんだ、分からないことばかりじゃないか」と言われると、確かにその通りです。しかし、1万年以上も前の縄文人の残した物が、現代の私たちには分からない物であることはむしろ当たり前で、何でも知っているような考古学者に出会ったら、ぜひ用心して下さい。
それはさておき、今後、このような例が他の遺跡でどのくらいあるか、また製作時や使用時(もし実用品であればですが)の傷などが残っているか、あるいは同じ時期の他の遺物との関係からその目的が絞り込めるかどうかなど、様々な研究を重ね、真相に迫れればと思います。
私個人としては、模様の付いた骨角器は極少数であることを重視し、孔に紐を通したペンダントなどのアクセサリー類ではなかったかと考えていますが、今後の研究で、違う見方をするかもしれません。1万前の栃原岩陰遺跡は、まだまだ謎だらけです。
では、次回以降も、栃原岩陰遺跡の遺物を中心に、みなさんを縄文世界に案内したいと思います。
2020年4月10日
北相木村考古博物館学芸員 藤森英二
夏休み、当教育委員会では、数年前から児童預かりをしております。担当者M君は超頑張っています。私(学芸員)も少しだけ手伝いをしますが、昨日は子供たちと一緒に、「マンモスの壁画を描く」と「土偶を折紙で作る」をしてみました。
マンモスの壁画については、昨年、当館で五十嵐ジャンヌ先生に教えていただいたワークショップをもとにしています。
今回は、はじめに模型を見ながらマンモスを描いてみて、そのあと旧石器人の描いたマンモス壁画の特徴を伝えながら再度描くという方法をとってみました。
相手は小学校4年生以下でしたが、これが旧石器時代と呼ばれる時代のヨーロッパの洞窟壁画をもとにしていることも説明しながらです。マンモス(ケナガマンモス)という生物の説明もします。氷河期という言葉も使います。
全部は理解できないかもしれません。しかし私は、このレクチャー部分も重要と考えています。
土偶については、縄文時代の説明からです。台所の鍋と縄文土器の関係、土偶と埴輪は別である、国宝ってなに?もちろん質問が出れば、精一杯答えます。
色々と制約もあり、粘土ではなく折紙という手法ですが、作る喜びも体験してもらえればと。なお、土偶の折紙については、『折る土偶ちゃん ー作って発掘・縄文おりがみ』(朝日出版社・文:譽田亜紀子/折り紙+装丁:COCHAE)を参考にさせて頂きました。
当博物館では、常時ワークショップなどを行う余裕がありませんが、学ぶ大切さを伝えることは、忘れずにいたいと思います。
7月16日の『信濃毎日新聞』でも取り上げて頂きましたが、栃原岩陰遺跡出土の土器片から、マメ科に属する種子圧痕が発見されました。
圧痕というのは、土器の表面にみられる小さな孔などを指し、これにシリコンゴムを流し込んで顕微鏡などで観察すると、植物の種などが含まれていることが分かってきたのです。
これは圧痕レプリカ法と呼ばれる研究で、これにより、縄文時代にマメ類(アズキやダイズの仲間)、シソ(エゴマ)など、食料にすることの出来るものが、彼らの身近にあったことが分かってきました。さらに、このような植物を栽培していた可能性も指摘されています。
北相木村教育委員会では、現在栃原岩陰遺跡の遺物整理作業を行っていますが、この度「明治大学黒耀石研究センター」と「土器種実圧痕研究グループ」の調査により、全部で6点のマメ科の種子圧痕が見つかり、そのうち2点はアズキ亜属とダイズ属であると分かりました。
土器は縄文時代早期のはじめ頃(およそ11,000〜10,000年前)のものと思われ、現在全国各地で見つかっているマメの圧痕としてもかなり古いものと予想されます。
今後の縄文時代研究で、注目されるかもしれません。
写真は、放射性炭素年代測定でおよそ10,800年前とされ、ダイズ属と思われる種子圧痕が発見された表裏撚糸文土器です。
左上の小さな孔が、種子圧痕になります。
尚、詳しい報告や展示についての情報は、随時このブログでも紹介していきます。
栃原岩陰遺跡は、1965年から発掘調査がなされましたが、その際、埋まっていた土の一部をサンプルとして保存していました。
今回その土層サンプルを分析し、中に入っていた植物などの痕跡を探し出すことになりました。総重量およそ50キログラム。
縄文時代早期の植生や、自然環境に迫る目的です。どんな結果が出るでしょうか?今から楽しみです。
先日、村の子どもたちを対象に、メダカラガイの貝殻を使ったアクセサリー作りを行いました。
やり方は簡単。貝の背の部分を石でこすって、輪っかのかたちにするだけです。
みんなで、ゴシゴシ。
皆で完成を喜ぶの図。よかったねぇ。
ちなみに、完成するとこんな感じです。
流石にタカラガイだけだとさびしいので、ビーズを入れておりますが、ツノガイなども混ぜていけたらいいですね。
博物館では何種類かのワークショップを行いますが、栃原岩陰遺跡ではせっかく「海の貝のアクセサリー」が出土しているので、これを体験出来ないか、画策しています。
これらが、栃原岩陰遺跡で出土した貝製品。約10000年前のものです。小さなタカラガイを何種類か使っています。
まずは貝殻の背の部分を、河原で拾った石でこすり削っていきます。石がよければ、ほんの数分できれいに削れます。
出土品を観察すると、中身の部分も一部欠けているものが多いので、その部分をシカの角を押し当てることで除去してみました。
写真右が出土品、左が今回作ったものです。ほぼそっくりになりました。
ちょっとヒモが太いですが、完成です。1つじゃ少しさびしいですね。
こんなかたちのワークショップも模索中です。ご期待下さい。
尚、今回使用したメダカラガイは、市原市教育委員会の忍澤成視さんにご提供いただいたものです。この場を借りて感謝申し上げます。
御代田町浅間縄文ミュージアムの堤隆学芸員による、信濃毎日新聞連載「縄文へ行こう!」の4回目で、栃原岩陰遺跡を取り上げて頂きました。
おかげさまで、先週末はたくさんのお客様にお越し頂きました。ありがとうございました。
博物館前の桜も、今週末には咲くでしょうか?ご来館、お待ちしています。
土器の分類とデータの入力作業
2月27日から3月1日まで、今年も考古学を学ぶ院生や学生が中心となり、栃原岩陰遺跡の遺物整理作業が行われました。
1965年に発見された栃原岩陰遺跡は、縄文時代早期の遺跡として有名ですが、その正式な報告書は未刊行のままです。
北相木村教育委員会では、その刊行を目指して、毎年このような機会を設けています。
土器の時期区分を試みる
そして、実際に作業にあたる学生さん以外にも、過去に北相木村を訪れてくれたたくさんの研究者や社会人の方々が、応援に駆けつけてくれます。
当館の、かけがいのない財産です。
栃原岩陰遺跡の報告書は、平成30年度の刊行を目指します。
一昨日から、明治大学の考古学専攻の皆さんが、栃原岩陰遺跡の土器の調査に来ています。約一万年前の縄文時代早期の土器の編年に、一石を投じる成果が期待出来そうです。
この時期、近隣の学校の来館が多くなります。大変ありがたいことですが、特に中学生には、地域における美術館・博物館の役割も、ほんのりお話ししています。
それにしても、やっぱり本物の土器や石器に触れてもらうと、皆さん俄然興味津々ですね。こういう時間も大切にしていきたいと思います。
遺物のカウント作業
少し前の話になってしまいましたが…。
去る3月初旬に、栃原岩陰遺跡の遺物整理作業を行いました。今年は早稲田大学、東海大学、明治大学の学生院生、そしてその指導者の方々が、作業を行ってくれました。
土器の拓本作業
今回は特に、栃原岩陰遺跡の正式な報告書の刊行を念頭に置き、博物館に収蔵されている関連遺物の量的な把握を目指しました。
その結果、土器片は7,000点以上、骨資料にいたっては、およそ120,000点が未整理であることがはっきりしました。
今後、どのような作業をどのような体制で行っていくべきか、じっくりと考えながら、報告書刊行を目指したいと思います。
今後とも、皆様のご協力をお願いいたします。
(作業に参加してくれた皆様へ、この場を借りて、改めて御礼申し上げます)
3月末、村教育委員会で行っている春休みの児童預かりで、博物館を利用しようということになりました。せっかくですので、ただ見るだけではなく、シカの角をつかったペンダント作りにも挑戦。凄く寒い日でしたが、博物館脇の河原で石拾いから。その後、石でごしごし削りました。
しかし、予想外に時間がとれたので、急遽その場の思い付きですが「シカの骨、誰が一番細く削れるか大会」を開催。これが意外と好評でした(笑)。
当館も、もっと地域のみなさんとの交流を深めていきたいものです。
3月3日の節句、ここ北相木村では、家難祓(カナンバレ)という行事が行われます。
「家の難事・世の中の災い事・人のけがれやわずらい」を、人形が身代わりになって祓い流してくれる、という古くからの信仰です。
かつては(少なくとも戦前のある時期までは)、各地区ごとの小学生の女の子が行なっていたようです。子供たちは、古くなった雛人形やお餅などを持って川原に集まり、むしろや蚕篭(かいこかご)などで簡単な小屋をつくり、そこに人形を飾りました。そして、お汁粉などを食べ、歌い楽しんだ後、雛人形で体をなで、それを川に流していたそうです。
戦前までは、このような行事が各集落で盛んに行なわれていたようですが、昭和50年代になり、村小学校の行事として行われるようになりました。現在は村老人クラブの方々が、サンダワラ造りを指導し、子供たちは役場前の川原でお汁粉をすすり、自分達で作った雛人形を、祓いごとを書いた紙とともに川に流します。
人形にいろいろなものを付託して流すのは、中国道教的思想の影響で8世紀頃からあるといいます。また、各節句の日に浜辺や川原などで遊ぶ行事は全国的にあったらしく、これは「イソアソビ」「ヤマアソビ」などと呼ばれていました。
小さな山村に残された、過去の記録と言えそうです。
なお、学芸員の仕事は、雛人形の回収です。現代的ですね。
先日、近隣の小中学生の皆さんが当館を訪れ、ワークショップとして「シカ角のアクセサリーづくり」を行いました。
河原で石を拾って、シカの角を削ります。皆さん、楽しそうに取り組んでくれました。
続いては明治大学考古学専攻の皆さん。こちらは実物を良く観察してから。
8月17日のイベントでご講演頂いた藤山龍造先生も、自ら釣針を作られます。
これがまたお見事でした。
そして、作った骨角器を再び観察。若い皆さんの研究の一助となれば幸いです。
それぞれの目的にあわせた骨角器作り。今後当館のワークショップの柱として、様々なプログラムを開発出来ればと思います。
このところ、大学で考古学を教えたり学んだりしている若い方達が、当館や村内の遺跡を訪ねてきてくれます。
先週は國學院大学、昨日は明治大学の皆さんでした。
全員が熱心に遺物を観察します。やはり考古学の基本は、自分の目で良く観ることです。
若い学生さんの中から、将来の考古学者が生まれるといいですね。人材を育てるのも、博物館の大きな使命だと私は考えます。
本日は横須賀考古学会の方々にもお出で頂きました。
皆様、またおいで下さい。
博物館の収蔵品は、時々出張します。今回は栃原岩陰遺跡の土器や石器、骨角器を、愛知県豊橋市美術博物館の特別展示「嵩山蛇穴と縄文のはじまり」の中で、大勢の方にご覧頂くこととなりました。
収蔵品の移動は、貸す方も借りる方も緊張する作業です。
今週、北相木村小学校の3年生が、博物館の見学に訪れました。まだ学校では歴史を習っていませんが、全員が縄文博士になれましたね。
写真は村内坂上遺跡で出土した、約5000年前の縄文土器を触っているところ。博物館では、こんな体験も出来ますよ。
北相木村考古博物館の学芸員です。ここから村の文化財や考古学の情報を発信していきます。